『小農はなぜ強いか』

著者の言う小農は、規模の大小に関係なく、「家族が中心になって行っている農業的な生活のすべて」を意味しています。そして、小農である農家こそ、人間の本来的な生産と生活の姿なのだから弱いはずはないと説いています。ようき農園にピッタリの表現です、と言いますか、心の拠り所の書です。

『小農はなぜ強いか』:ようき農園の心の拠り所の書です。
『小農はなぜ強いか』(守田志郎・著、農文協、1975年)

小農が弱いはずがないのに、弱いと思いこませようとする圧力があって、それが「遅れた農業・農村」「都会並み」「大型化」「産地化」「進歩・成長」だと指摘します。素直に思い込んで行動に移せば、生活の貨幣依存度がますます高くなり、それこそ不安定になり地に足がつかないような生活になってしまう構図です。

例えば「○○は成長性がある作物」と言われそれを追うということは、その作物を全部お金にするということが前提になります。そして状況に合わせて右往左往する羽目になります。

どれが成長作物でどれが衰退作物か、という問題の立て方を、一度完全に忘れてみたらどうだろうか。自分にとって必要な作物は何か。農家の人たちがそれぞれに考えて、作物を選ぶ、そこからはじめるのである。

もちろん地域や土地や状況によって何でも作れるわけではないが、たくさんの種類の作物をつくるようにする。土地に合い他と比べて良さそうなものがあればいくらか余計に栽培したりする。ともあれ、まず第一に自分たちの食べるもの、その次に売るものとして作物を見るという順序です。

そして、「地力は作物が作る」のだから、いろいろの作物は、互いに助け合い地力を養うような手順で作らなければならない。これこそ農業の生活の長い歴史の積み上げが作り上げた農法の神髄と説明します。そしてもう一つ「作物は自分で自分の面倒をみる」をよくよく理解して展開すること。

ここのところは、ことあるごとに思い出して血肉にしておかないと、すぐにあらぬ方向に行ってしまいそうです。

ここから循環論に入っていくことになります。農業の循環の話は他でも見聞きしますが、著者の話が私には一番しっくりきます。ある作物を増やしていくか減らしていくかは、自分の家の循環をまっとうするうえでどうするかを決めていく、というのが本当の姿と説きます。堆肥の話も、作付け、輪作、田んぼ、家畜、還元産物(例えば、米作の糠とか)も循環の中に位置づけます。

もっとも、こんな考え方されたのでは都会の人からは、自分たちの食料はどうなるのか、と批判の声もあがりましょう。

循環の農業は、無理なく育てられるものを育てる関係の中での生活なので、そこに「自給」の言葉を持ち込むのは都会の言葉の押売りのようなもの(略)
一軒一軒の農家で、それぞれの地域や田畑の大きさや家族の状態に合った循環の農業ができあがっていくその結果として、都会の人間の食べものがどうなっていくか、そういう順序で考えていく性質のことなので、都会の人間の「食料の自給」のために農業をどうする、という順序では逆立ちの論議になってしまう

循環の農業を営んで、その循環の回転の中から、自然にはみ出してくる米やら卵やら肉やら大豆やらが都会に回っていく。

たしかにこれで都会の食料が賄えるかどうか、大規模・産業化も一方で必要でしょうし、やりたい人もいるでしょうが、私の住んでいるような山間の田舎では、循環のほうがしっくりきそうです。

書いた人:百姓 知さん